anyadraの日常

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完全の功罪

いつも私の文章を楽しみにしてくださっている方には長らくお待たせしてしまい申し訳なく思っています。

 

久しぶりに近況報告を交えながら記事を書きたいなと思っていたところで何とは言いませんが先日の衝撃的な事件を受けて現在筆を進めずにはいられなくなっているところであります。

 

では本題に入っていこう。今回のテーマである“完全”について改めて辞書的な意味を調べたところ以下のようなものであった。

 

1.欠けたところや足りないところがまったくないこと。必要な条件がすべてそろっていること。また、そのさま。

2.欠点などのないようにすること。

 

ここで質問だが、次のグループAのゲームとグループBのゲームの違いは何か?

グループA:将棋、チェス、囲碁リバーシ

グループB:麻雀、バックギャモン、ポーカー

 

最も簡潔かつ正確な答えは、グループAのゲームは二人零和有限完全情報ゲームであるがグループBのゲームはそうではないというものであろう。

 

以下では表記を簡単にするためにグループAのゲームを完全、グループBのゲームを不完全であるとして話を進める。これはバックギャモンは不確定ではあるが完全情報ゲームである等の理由で厳密には誤りとなってしまうが、ここではゲーム理論の細かい話をしたい訳ではないのでその点は許していただきたい。

 

細かい話はさておきここで私が皆さんと共有したいのはグループAのゲームは理論上は完全な先読みが可能で双方のプレーヤーが最善手をプレイし続ければ必ず先手必勝か後手必勝か引き分けかが決まるのに対し、グループBのゲームはいわゆる運ゲーと呼ばれてしまうものだということである。(もちろん実力が勝敗に大きな影響を与えるが)

 

では、グループAに属する完全なゲームはグループBに属する不完全なゲームより明確にゲームとして優れていると言えるだろうか?

 

先に述べた“完全”の意味から考えると、明らかにAの方が優れていると思うかもしれない。

 

確かにAのゲームでは負けた場合に必ず自らの選択に敗因を求めることができるし、逆に言えば最善を尽くせば必ず勝つことができる。

 

これはBのゲームでは最善を尽くしても勝てないことが日常茶飯事であるのとは大きな違いだ。私も日々人知れず理不尽な負けに延々と発狂しているので、この意味でAの方が優れているという主張にはとても共感できる。

 

しかし、私はAのゲームとBのゲームに優劣はつけられないと考える。なぜならBのゲームからは次のような超重要な人生のエッセンスが直接的に得られるからだ。

 

不確定な未来を見据え、目の前の最善を追求する。仮に最善を選択できたとしてもそれが必ずしも未来の最高の結果には直結しないことを承知の上で。

 

Aのゲームも誰にも完全なる理論が分からないことによってゲームとして成立しているので、Aのゲームのプレイヤーにとってもこのエッセンスは重要である。しかし私も含めて多くのAのゲームのプレイヤーはこのエッセンスを軽視しがちではないだろうか。

 

最善が必ず勝利に結びつく、だから完全な結論を得ることが全てだ。この完全至上主義の考え方こそが今回の事件の最も根深いところにある原因ではないだろうか。

 

もちろん完全を目指すことは人間が豊かになるためにとても大切な営みだ。だが完全な(と人間が思っている)状態そのものには何の価値もない。真の意味での完全は人間の手には届かないところにあり、そこに少しでも近づこうとするプロセスそのものに価値があるのだ。ここを勘違いしてはならない。

 

今回の事件には個人的に特に残念に思うところが2点ある。

 

まず1点、歴史が繰り返されたことだ。私の目が光っている間は少なくとも大きな事件は起こらなかったが、私が引退した直後に不正による大事件が起こったという流れは今回が初めてではない。

 

この流れは私の高校生時代と全く同じであった。そしてその時と全く同じ感想を持ってしまった。自分たちの代が消えて、大会の質が落ちたのではないか?と。

 

もちろん私も引退したばかりであり今も現役プレイヤーの方々と交流があるので、彼らが勉強熱心で非常に高い実力を有することは身をもってよく知っている。だからこそ心の片隅にでも上のような感想を持たなければならなかったという事実が残念であった。

 

そしてもう1点、今回の事件を起こしてしまった彼はある意味私の弟子のような存在であり、私の目の前では絶対に不正などできない人間であることが分かることだ。これに関しては私が騙されていただけなのかもしれないが、本当のところは分からないし深追いする気もない。

 

このような背景があったために最初にこのニュースを耳にした時は余計に信じられなかったが、事実なら問答無用で破門である。私はとても優しい人間なのでほぼ怒らない反面、私の前で絶対に越えてはならない一線を越えてしまった人間に対しては冷たく突き放して終わりだ。救いの手を差し伸べることも逆に余計に痛い目に遭わせるようなこともない。

 

今回の事件を受けて改めて対策と指導の徹底が課題となったので、これらについての私の見解を述べて今回の記事を締めようと思う。

 

まず指導として弟子達には改めて以下のように伝えた。

 

“残念ながら悪い言い方をすれば今の将棋界隈には藤井聡太とそれ以外しかいないのでたかが学生大会の成績ごときで人生に大差はつかない、でも不正等で人間としての信用を失ったらそのツケは一生背負うことになるから気をつけろ”

 

誤解を生みかねない過激な表現をしてしまったかもしれないが、もちろん将棋界隈が今の藤井聡太1強状態を作り出したことは誰の罪でもない。また他にも素晴らしいプレイヤーが多くいることは承知している。

 

また私は将棋は素晴らしいゲームであると思っているし、だからこそ技術を悪用した競技への冒涜は最も許せない行為だ。

 

もちろん不正は倫理的にしてはならないことだが、仮に倫理観のかけらもなく損得だけで動く人間がいたとしてもその人間は不正という行動を小さすぎるリターンと大きすぎるリスクが見合わず明確に損だと判断して回避できるはずだ。だから今回の不正は私には正直意味が全く理解できない。

 

このように他人の行動は完全には理解できないものだ。だから不正の完全な対策などできるはずがない。正確に言えば、完全な(と思われる)対策をしてもその上をいく手法で不正を犯す者が将来的に現れる可能性が全く否定できない。先にも述べた通り、幻想としての“完全”は大きな罪となりうる。

 

では具体的にどのように対策をすべきか、それはとても難しい問題であり場合によるとしか言いようがない。選手としては運営に最大限協力するのが最善の努めであろう、今の私にはこれくらいしか分からない。

 

将棋界隈は他の界隈(チェス等)に比べて不正対策が遅れているというのは何年も前から言われていることだ。しばらくは今回の事件の衝撃で全員が気を引き締めているところでもあり大きな事件は起こらないだろうが、残念ながら忘れた頃に想像を絶するような不正事件が起きてしまうだろうと私はここに予言しておく。

 

この予言が外れ続け、界隈がさらに発展して全員で幸せになれるようなものになることを願っている。私も少しでも貢献できればと考えて日々の活動を進めていきたい。

 

またしても長く拙い文章になってしまったかもしれないが、私も事件を受けてすぐにこの記事を書こうとしながら内容の息苦しさもあってかなかなか文章がまとまらずようやく今になってなんとか形にできたところなのでご容赦いただきたい。

 

最近人生という不完全情報ゲームであまりうまく立ち回れていない気がするので、この記事を仕上げたことをきっかけにこちらを良い軌道に乗せて次は明るい記事を書けるようにしたい。そのためにすべきことはもう決まっている。

 

不確定な未来を見据え、目の前の最善を追求する。仮に最善を選択できたとしてもそれが必ずしも未来の最高の結果には直結しないことを承知の上で。