anyadraの日常

anyadraの日常を伝えていきます。

“生かされている”ということ

2ヶ月以上このブログを全く更新していなかったが、先日ようやく夏休みに突入できたこと、最近記事を盛んに更新されている某氏に刺激を受けたこと、どうしても記事にしたいニュースが舞い込んできたこと、いろいろ重なって記事を更新するまで絶対に天鳳は打たないという自分の中では最強クラスの決意をして今筆を執っているところだ。

 

そういえば一番最初の自己紹介記事でプロ野球観戦も趣味の1つで5歳から中日ファンだということは書いたが、これまで一度もプロ野球について詳しく書いたことはないので少し書いてみようと思う。

 

プロ野球に最初に興味を持ったときの中日は強かった。あの落合竜の全盛期だった。5歳や6歳の子供ながらによく分からないながらも直感的に魅力を感じる、そんなチームだった。もしこの時の中日が弱小球団だったら今頃自分は野球になど微塵も興味を持たずに生きていたのかもしれない。

 

15年以上プロ野球(中日の試合)を見てきてこれまでに感動したシーンは数え切れないくらいある。2006年の東京ドームの優勝決定試合、2007年の日本一決定完全試合リレー、2011年の首位攻防戦での神走塁・・・全て挙げようとしたりそれぞれについて細かく書き始めようとしたりするとキリがないのでこの辺にしておこう。

 

残念ながら2012年以降中日はリーグ優勝から遠ざかってしまっており、特に2013年以降中日は7年連続Bクラスが続いていたが、それでも毎年今年こそはという思いで期待してしまう自分がいた。あの強かった頃の幻影を追うように。特に連続Bクラス期間の後半はAクラスに惜しいところまではいっていただけにもどかしい思いもあった。

 

そして昨年ついに8年ぶりにAクラスに返り咲いたのは嬉しかったし今年も開幕前は今年こそは優勝してくれるのではないかと期待していた。

 

ところが開幕すると投手陣は12球団トップクラスと思える充実ぶりだったが打線は中日だけサッカーやってんのかというくらい点が取れず、現在前半を終えて上位3球団と下位3球団が大きく離れる展開での4位に沈んでしまっており、優勝はおろか3位すらもかなり厳しそうな情勢ではあるが、後半こそは巻き返して少しでも上位に食い込んでほしいなと期待している。

 

そんなそこそこ熱心な中日ファンをやっている自分にとって先日本当にショックなニュースが舞い込んできた。中日の木下投手の訃報である。

 

それを聞いた時は何と言って良いか分からない気持ちになった。

 

木下投手は昨年一軍でも投げていて、今年の期待の選手の1人だった。しかしオープン戦で肩を脱臼して離脱してしまい、復帰を目指していた道半ばでの出来事だった。

 

何度も訪れる逆境に立ち向かいながら日々必死に生きていた若くて才能のある選手が志半ばにして人生を終えなければならなかった、生きることができなくなったというのはなんと残酷な現実であろう。中日には後半はそんな木下投手の思いも胸に良い戦いをしてほしいと思うし、自分もそんなチームを応援していきたいと思う。

 

そしてもちろんなかなか厳しい現実もあるが、自分は一時は完全に腐りかけながらも今はまだ“生かされている”ということは決して当たり前のことではなく、そのことへの感謝を決して忘れてはならないし、日々精一杯やれることをやって生きていくしかなく、そうしなければならないと思う。

 

生きることを許されなくなったら何もできない。逆に生かされている限りは如何に厳しい現実の中にも光が差す可能性があるのだ。残念ながら普段無念の死を迎えてしまった人々に思いを馳せる余裕はなかなかないものだが、心の片隅にでもそんな人々への思いをおいてこれからも日々を生きていきたい、そう決意したところで筆を置こう。

役に立つことをするな

役に立つことをするな、普通ネット上で突然こんなことを言ったら炎上は確実である。しかし安心して欲しい、言っているのは炎上したくてもできない男だ。

 

でもどうしてこんなことを突然言い出したのか、不思議に思われてはいけないので真意を説明していこう。

 

そもそも自分や他人の役に立つこととは具体的には何をすることだろうか?

 

人間が誰かの役に立とうとしてやったことは、本当にその人の役に立っているだろうか?

 

結論から言ってしまおう。自分や他人の役に立つことは何なのか、それはよく分からないものだ。だから誰かの役に立とうとしてやったことはその期待値の割に役に立たない。むしろあまり誰の役にも立たないだろうと思ってやったことに限って偶然誰かの役に立ったりするものだ。

 

これだから役に立つことをしてはいけないのだ。いや正確には役に立つことをしようと意識してはいけないのだ。

 

もちろん人間には誰しも何らかの目的のためにやるべき最低限のことがあるだろう。それは仕方ないから嫌だろうが苦しかろうがある程度割り切ってやるしかない。

 

だから自称意識他界系学生の自分でも単位回収、卒業という目的があるからこそこんな虚無生活が続いていても学業において最低限やるべきことはこなしているつもりだし、逆にそこがある程度しっかりできていれば後は何をしても良いと思っている。他人から見たら堕落していようが、廃人になっていようが、そんなことは関係ない。

 

だから何をしても良いところで役に立つことをしようとして苦しむのだけはもう勘弁だ。

 

かつて将棋を自分の将来のためにと少しでも思ってやってしまっていた頃は自分で自分を縛りつけて苦しんでしまった。最近になってようやく将棋やったところでどうせプロにならないし何の役にも立たないと思えるようになって何かから解放されたかのように将棋の戦術の幅を広げることができた。この精神で将棋を指すことがもっと早くできていれば人生は変わっていたはずだ。

 

1年前くらいまでは一時期競プロも少しは熱心にやっていた。今やっていないのは競プロが自分にとってやるべき最低限のこととも思っていないし何をやってもいいのにやりたいというほどやりたいと思えないから、ただそれだけである。

 

もちろんこれまでに競プロで少しは身につけたプログラミング能力が偶然にも役に立つことはあったが、(情報学科にいたら当然か)役に立つからというだけで無理してやらなくても良いと思っている。どうしても必要に迫られるか、やりたいと思えるか、そのどちらかの時にまたやれば良いのだ。

 

今は学業や将棋部等の仕事をこなしたりする以外では麻雀(天鳳)を廃人のように打ったりたまにこうして文章を書いたりして生活している訳だが、別にこれらのことが将来自分や他人の役に立つとは微塵も思っていない。ただやりたいからやっているだけである。

 

もちろんただやりたいからやっていたことが自分あるいは他の誰かの役に立つこともあるかもしれないし、もしそうなったらそれはそれで嬉しいことだが。

 

だからこれからも誰に何を言われようとこの廃人生活を辞めるつもりはないし、それは最低限やるべきことがまだ少ない学生の特権を行使することであり、あのウイルスによる強大な制限に対する唯一最強の抵抗でもあると思っている。

 

これからも昇段とレート上昇を目標に何の役にも立たない日々を生き続けていくことを誓い、別にこの文章は自分の趣味なので誰の役に立つことを期待するでもなくここで筆を置こう。

将棋なんてくだらないんだよ(後編)

この過激なタイトルの意味は前編を参照してもらうことにして、後編に入ろうと思ったが、前編から少し時間が空いたので前編を軽く振り返る。

 

前編では将棋がくだらない客観的な理由を書いた。こう見えても意外と慎重というか弱気というかそういう面があるので、前編の記事を公開するにあたってはもしかして炎上するんじゃないかとか色々な思いがよぎり、決断に時間を要してしまった。

 

しかし結果はいつも通りわずかに注目されただけだったのですごく安心したし、やはり人間、他者のことを見ているようで見ていないし、見ていないようで見ているというのは真理なんだなあと再確認した。

 

これからも自信を持って(炎上を恐れず)自分らしい文を書いていきたいし、読んだ人に少しでも何かを伝えられれば物書き冥利に尽きる。

 

前編の振り返りはこの辺りにして、いよいよ後編の本題、将棋がくだらない個人的な理由について書いていく。

 

まあそもそもお前誰だよって思われそうなので軽く自己紹介(?)しておくと、今となっては将棋より麻雀の方が強い疑惑が出るくらいには落ちぶれた残念な将棋指し(と言えるかも怪しい)だが、これでも全盛期(とは本当は言いたくないが)には当時の中学生としてはかなりすごい人(自分で言うな)だった。

 

某全国大会(もちろん一般)では決勝進出したし、その年は他に一般全国ベスト8に2回入ったし某中学生大会では全国優勝した。

 

まあこの程度の活躍ではしばらくして藤井聡太という恐ろしい中学生が現れたのに比べれば明らかに月とすっぽんだし、当時は自分こそ奨励会には行かなかったが知り合いもたくさん奨励会に入っていて(今も奨励会にいる者、すでにプロになっている者もいる)その彼らに負けないようにと思って将棋をやっており、当時からの第一目標はまず全国優勝級の活躍でプロ棋戦に出て、プロに勝つことで、それが出来ればプロになれる可能性が開けると考えていた(当時プロ編入試験が話題になっていたこともあった)ので自分としてはまだ道半ばだ、全国であと1勝をするには王道をもっと究めねばと思っていた。

 

しかし残念ながらその後も一応3年続けて学生タイトル獲ったりはしたが、正直全盛期も含めて“地味”な活躍しか出来ていないまま今日に至ってしまっている。プロ棋戦には一度たりとも出られていない。

 

しかし、自分は残念ながら地味だったとはいえ、将棋が世間でかなり注目されている現代に全盛期当時の自分が現れたら結構メディアとかにも取り上げられているのは間違いないと確信している。

 

なかなか勝てなかった原因は単純な意味での慢心、そうではないだろう、しかし深い意味では慢心だったのかもしれない。つまり、油断せずにやっていけばそのうち結果が出るだろうという考えが甘かったのかもしれない。とはいえこれは甘い考えだということを、若い者が強いとされる将棋界隈でいよいよ勝てるようになってきた中学生が理解していなければいけなかったというのは、あまりに酷な話だと思うが…

 

自分の慢心がどうだったかはさておき、技術的には5〜6年前から人間より強い将棋ソフトが強大な影響力を持つようになった。自分はそれからずっとどこかソフトに将棋を狂わされてきているところがあるせいで勝てずに苦しんできているのかもしれない。全盛期がこのソフトの台頭の直前、まだ将棋界隈が地味で、自分が超オカルトな将棋で勝っていた時代に訪れてしまったというのは我ながらお前は本当に持ってない奴だなあと言わざるを得ないのかもしれない…

 

持っていないというのはそれだけではない。18歳、将棋指しとしてとても大事な時期にまさかの浪人(後で振り返れば明らかに実力不足で自分が悪い)をした。大会にもほぼ出なかった、いや出られなかったその一年は本当に地獄だった、藤井聡太がどんどん勝っている間に、自分は何をやっているんだ、俺はもう終わりだ…とかいろいろな思いがよぎりながら、浪人したのにもし受からなかったら本当に終わりだと思っていたのでなんとか最低限は勉強できたし、結果なんとか合格できた。我ながらよく耐えたと思う。

 

そして大学1年目は思ったように勝てないところもあったが、全国大会でも少しは活躍したので来年はこれを弾みにさらに上を目指していくか、そう思っていた矢先、トドメを刺しに来るかのように持っていない案件が訪れる…

 

あのウイルスだ。名前を出すことすら許されない、あいつだ。大会が消えた、もういくら強くなったところで自分がプロで活躍する未来は事実上消滅したなとここで初めて思った。その間にも藤井聡太はどんどん勝つし、どんどん若くて強い人間が現れるのだから…

 

小学生にして、他の人間にはない圧倒的な武器を得るんだ、自分はこれで生活できるようになるんだ、その思いで始め、ずっと続けてきた将棋を指す価値はそこでなくなった。そして麻雀打ちに徐々に生まれ変わっていって、今となっては自分は将棋指しなのか麻雀打ちなのかいよいよ分からなくなるレベルまでは来た、まだ将棋の方が麻雀よりは強いと自分では思っているが…

 

長い人生という意味ではまだこれからの年齢なのかもしれないし、実際将来の可能性がいろいろ広がっているなとは思っている。しかし結局将棋でこんなことになるなら、こんなに真剣に向き合う必要はなかったし、将棋に捧げた時間の何割かで数学とか競プロとか他にもいろいろあるかもしれんがそういうのをやってる方がどう考えても人生の助けになったやろ、将棋なんてくだらないんだよ。

 

自分の人生を切り開く意味で将棋を指す価値は1年前にもう消えたとはいえ、幸いにもこんな落ちぶれた自分でも必要としてくれている人達がまだ将棋界隈には残っているし、純粋に競技として楽しむだけなら将棋は良いものだとは今でも思っている。また新たに将棋界隈に興味を持ってくれた人に自分の切り口から将棋の良さを伝えることもできるはずだ。そのような思いで将棋の引退まではせず、いよいよ大会がやって来る、楽しみだなと思っていたその矢先だった。

 

大会中止の悲報が届いた。でもこれまでとは違い、それほど大きな痛みを感じなかった。将棋なんてくだらないんだよ、そう思っていたからなのかもしれない。

 

自分でも想像を絶するような長さになってしまったが、幸いにも競技としての将棋を純粋に楽しむ機会が完全になくなったわけではないし、なんだかんだ自分を育ててくれた将棋界隈に微力ながら貢献できればとの思いもあるので、今後どうなっていくかは分からないが、将棋は引退せずに続けることを約束して、締めくくりとする。

 

最後まで読んでくれた人全員に感謝し、ここで一旦筆を置く。

将棋なんてくだらないんだよ(前編)

先日、とある悲報が届いた。将棋の春大会、中止とのことだ。理由は今更言うまでもないであろう。あのウイルスだ。なんとくだらない。

 

1年前の自分ならこの知らせを聞いて圧倒的虚無感に襲われていたに違いない。しかし嬉しいことなのか悲しいことなのか、今の自分は大して何も思わなかった。もちろん開催されたら出たかったし、もう一度原点に立ち返った自分の将棋を全世界に発信していきたかった。

 

それでも虚無を感じずに済んだのは麻雀に魂を売ってしまっていたからである。将棋ができないなら麻雀をすれば良いのに。マリーアントワネット的な発想である。

 

とはいえこの期に及んで大会中止の仕打ちを食らった次の日の夜、なかなか寝付けずにいたら急に“将棋なんてくだらないんだよ”とか思い始めた。いきなり冒頭からこんな過激なこと言ってるので、ちょっと有名な人間なら炎上しかねない。しかし安心して欲しい。自分は20年以上生きてきたのに一度も炎上はおろかバズりもしたことのない人間だ。どうせこの記事だってほとんど誰の目にも触れることなく死んでいくんだ。それでもここまで読んだ人には最後まで読んでもらえればと思い、本能のままに筆を進めていく。

 

将棋なんてくだらない、理由は大きく分けて2つ。1つは割と客観的で、もう一つはかなり個人的になってしまう。別にお前のことなんかどうでも良いと思っている人にも前者の部分だけでも読んでもらいたい。

 

前者の客観的な理由は、オリンピックが開催できるというのに、それよりもはるかに規模が小さく、どうせ誰も注目してないような大会すら中止になるような将棋ってこの世の中では超くだらないものなんだなあ、ということである。別にここでオリンピックの開催の是非を問いたい訳ではない。もちろん自分も含めて各々がいろいろな考えを持っていることだろうが、それは今どうでも良い。大会の中止という歴然とした事実が、将棋はオリンピックなんかよりもくだらないということを表している、ただそれだけのことである。

 

それでも将棋なんてくだらないとか言ってたら特に最近のブームで将棋界隈に参入してきた人達からものすごい反発を食らいそうだ。そういう人達の気持ちも分かる。自分が麻雀やり始めたのと全く同じようなことだ。

 

でも冷静に考えて欲しい。今のブームで盛り上がっているのはあくまで“プロ”の将棋界隈だけではないだろうか。自分を含め、将棋を必死にやっている、あるいはやってきたけどプロではない人間の居場所はもうないのだろうか。大会中止という事実を前にそう感じざるを得ない。

 

もっと言えば、大会は将棋に人生をかけたとかそういうこととは関係なく、純粋に将棋という競技を楽しもうとしている人間の居場所でもある。もちろん最近は大会以外にも将棋の多様な楽しみ方があって、それで将棋界隈が盛り上がるのは悪いことではないが、何かと今の将棋界隈に思うところがあるのは自分だけだろうか。

 

もちろん今回の件では誰も悪くないし、中止になったのもやむを得ないのかもしれない。それでもこの状況を前にして1選手として思う、将棋なんてくだらないんだよ。

 

なんかここで一旦話がまとまってしまったし、個人的な話書き出すとまた長くなりそうだし、お前の話こそくだらないんだよと言われそうだし、今意外に時間が無いので前編はここまでにして、後編で個人的な思いを書かせてもらおうかなと思っている。

人生なんて、所詮は運ゲー

最近この日記を書く意欲も全く無かったのだが、ふとメールを開くと某氏のはてなブログが超久しぶりに更新されたという通知が来ていた。俺も負けるわけにはいかないとか思ったわけではないのだが、なんか急に書きたくなったので書いているに過ぎない。

 

というわけで、今回の内容は、タイトルの通りだ。いきなりだが、質問だ。“人生なんて、所詮は運ゲー”、この言葉を聞いてどう思うだろうか?

 

少し過激な言い方をするが、この言葉は明らかに間違っていると思ってしまった人間は人生の本質が何たるかを全く分かっていない。人生のあらゆる場面で運の要素が少なからず介在していることに疑いの余地はなく、人間はこのことにもっと自覚的になるべきである。

 

では次の質問。人生は運ゲーだが、果たして何もしなくても勝てるのか?

 

いや当然負けるだろと思った人間は何かを勘違いしているのかもしれない。人生、何もしなければ運ゲーに参加することすらできないのだ。そして気付かないうちに少しずつ搾取され、気付けば取り返しのつかないことになっていることもある。

 

もちろん運ゲーに参加できたとしても自分が負けていることにすら気付けなければそれは参加していないに等しい。これも恐ろしい事態を招いてしまうかもしれない。

 

ここまで読むと、人生に絶望しかねないが、救いもある。それは生きる限り無数の運ゲーに参加することができる一方であえて負ける前に運ゲーに参加しないという選択もでき、力の配分を自由に決められることである。

 

ただ、悲しいことに、運ゲーは生まれた瞬間から始まっており、物心ついた頃には既に大きな差がついている。それでも人間はこれまでの運ゲーによって得られた手持ちの能力をどう伸ばすか、そしてそれをどう生かすかを考えながらより良い結果を得られるように必死にもがき続けるしかないのだ。

 

残念ながら大半の人間は大半の運ゲーに勝てない。それでも人生、1個でも勝機のありそうなゲームを見つけてそこである程度の勝利をつかめれば御の字ではないかと思うし、そのゲームを探す時間は生きる限り与えられている。ここでのある程度の勝利とは自分にとって納得のできる結果を得るということである。

 

だから今まで自分は負け続けてきた、もう勝てないと思っても、そこでゲームオーバーにはならない。本当のゲームオーバーは、結果に絶望し、何のゲームにも参加しなくなってしまったその時である。

 

いろいろ書き殴った我が身のこれまでの人生を振り返ると、自分は誰に何と言われようと自分の直感を信じてやってきた。4歳か5歳くらいの時には既に今から勉強していけば確かに東大にはいけるだろうけどそれでは人生うまくいかない、だから何か誰にも負けない圧倒的な武器を得なければいけないとかいう我ながら全くかわいくない思想を持っていた。

 

そんな中、小学生の時に将棋というジャンルの運ゲーに出会い、これを極めれば周りの誰もやっていないから勝てるのではないかと確信し、この運ゲーに大半の力を注いでいった。

 

しかし現実は甘くなかった。強くなるにつれ、大半の人間よりはうまくやっているという確信は持てたが、それでももっと将棋に捧げている人間や能力も運も自分より圧倒的に優れている人間(藤井聡太現二冠など)がいることに気付き、将棋が自分にとってどんどん過酷な運ゲーになっていった。

 

確かにもう少し勉強とか他の運ゲーの分まで将棋に捧げていれば、将棋という世界ではもっと結果も出せただろうが人生という大局的な運ゲーの視点で見て今より良い結果を出せたかは分からない。

 

しかしプロになれたら成功と考えれば、もっと強気に勝負した方が良かったのではないか、明らかに自分は押し引きを間違えたな(引き過ぎだった)と今は考えている。少なくとも、強気に勝負していればあのウイルスの出現という不運のせいで何もできなくなり、落ちぶれていくという最悪の事態を避けることは可能であっただろう。まあ人生は所詮運ゲーである以上、こういった理不尽に思える事象であっても受け入れざるを得ないのだが。

 

もう過去は変えられないので、過去を全て捨てて新たなスタイルで勝負していくしかない。もちろん変化していくのは言うは易く行うは難しではあるが。

 

また将棋で引き過ぎた一方で勉強の方には全く力を注げていなかったのに能力を過信して強気過ぎる押しをしてしまったのが自分が受験に一度失敗した最大の要因だったと思っている。それでも1年を犠牲に戦い方を1から見直せば勝てると判断し、最終的にはなんとか受験という運ゲーでは自分の納得のいく結果を出せて良かった。

 

今は今後の人生という運ゲーをどう戦っていくか、腰を据えて戦略を立てている段階だと思っている。いろいろ思うことはあれど現実は学生生活の中でいろいろなものに出会えてそこそこ幸運であると今は思えているので、今後もやれることをしっかりやった上で結果は所詮運だと開き直れる精神で長く過酷な人生という運ゲーをやっていきたい。

 

よく考えたら自分は作家になりたいとは思わなかったが昔から文章を書くのが好きで、こうして自由に記事が書けるのも幸運なことなのかもしれない。自分に発信の機会が与えられていることに感謝しつつ、一旦筆を置き、また気の赴くままに筆を進められればと思う。

オカルト

あけましておめでとうございます。anyadraです。本年もよろしくお付き合いください。とはいっても全く年が変わった実感がないんですけどね。

 

だいぶ更新サボってたけど、早速新年一発目の日記書いていこうかな。

 

早速ですが、皆さん今年をいかがお過ごしでしょうか。世間は緊急事態宣言とか言ってるけどみんなそれぞれの思いを抱えながら今年最初の月を過ごしていることでしょう。

 

私事ですが、今月結婚することになりました!とかそんな嬉しい話があるはずもなく、今月は天鳳絶賛負けまくってますわ。

 

去年の終わりには長期的に見て成績もそこそこ安定してきて、いよいよ上(まずは六段)目指していけるかなーとか思ってたら突然地獄モード引きましたわ。

 

一度ハマるとラス引きまくって連対すらできなくなるのが自分の至らぬところなのだが、その弱点を見事に露呈して降段してしまった。降段後も勢いは止まらず負け続け、最近ようやく持ち直してきたなと思ったらまた地獄モードにハマってしまって今に至っている。

 

どうしたらこの沼を抜けられるのか、それが分かってたら今頃六段にはなってるよ…と思いつつ自分なりに分析したり新しい知識を取り入れたりしながらやってるので、少なくとも1ヶ月前の自分よりは強いという自信はいつも持っている。

 

しかし自分も当然分かっていることだが、麻雀は運ゲーだ。必ずしも強い=勝てるではないのだ。ミスしまくってもトップとれるし、ミスしなくてもラス引くんだ。

 

もちろんこんなところで躓いてるお前はまだまだ弱い、そんなことは分かってるし、今後もずっと勉強だ。

 

ただ最近気になることがある、何でも“デジタル”がもてはやされすぎていないだろうか?

 

よく“デジタル”の対極に置かれがちな“オカルト”は本当に間違っているのだろうか?

 

確かに“デジタル”な選択をしていくのが期待値最大なのかもしれないし、実際自分も麻雀の勉強は実戦でパッと期待値最大の選択ができるようになることを目的としてやっているつもりだ。(とはいえ未だに凡ミスをよくやるのが自分の悪いところ、改善点だが)

 

これは自分の専門である将棋でもそうだ。将棋で言う“デジタル”とは人間より圧倒的に強いソフトの示す評価値が最も良い選択をすることだ。実際最初から最後までソフト通り指せれば人間との対局において負けることはないであろう。

 

これに対してオカルトではあえてデジタル的な“最善手”を選ばない。これはデジタルの目からは長期的に見て明らかに損をしている選択だとみなされる。

 

しかしここまでの話は“デジタル”が本当に真理であること、さらに人間がデジタル通りの行動を遂行できるという前提があって成立するものであるが、果たしてこの前提は真か?

 

もちろん偽であろう。確かにデジタルは現時点で分かっている期待値最大の選択を示しているかもしれないが、今はデジタル自体が日々進歩している段階である。これは今オカルトとみなされているものの中に真の意味での“デジタル”が眠っている可能性を示唆している。

 

麻雀のような不完全情報ゲームの話になるとだいぶ複雑になってしまうし、自分の専門外なのでここからは完全情報ゲームである将棋の話に限定させてもらうが、人間がデジタル通りの行動を遂行できるという前提は明らかに偽である。

 

そもそも仮に真であったならば、将棋自体が競技として成立しなくなってしまう。

 

さらに将棋の場合、その特性として最後に致命的なミスを犯した方が負けるので、デジタルに難解かつ最善の道を進んでも必ずしも勝率が上がることに繋がるわけではないことに留意せねばならない。

 

もちろん近年の将棋ソフトの進歩は目覚ましく、デジタルに対応できないと簡単に不利になったり負けたりすることがあるので、実力向上の目的では将棋ソフトの活用はもはや必須である。

 

ただ最後に勝負を決めるのはオカルトの部分になってくるのではないだろうか。特に人間同士の時間の切迫した終盤戦では頻繁にオカルトがデジタルに通用してしまう。だから逆転が起こるのであり、競技としての面白さがそこにあるのだ。

 

ここまでオカルトとデジタルを対立軸において考察して来たが、そもそも“デジタル”自体が最善であるという保証はどこにもない。その意味で“デジタル”はオカルトの一種であるというのが自分の結論だ。

 

最後に、自分は決してデジタルを否定しているわけではない。自分は将棋や麻雀の勉強においてデジタルとは切っても切り離せないような関係にあるし、実力向上の観点からはデジタルはむしろ有用であると思っている。

 

しかし勝負の世界では相手は全てオカルトだ。どんなオカルトが来ても打ち勝てるような強いオカルトを自分の中に作り上げていくことこそが勝負の世界で勝っていくために必要なのではないだろうか。

 

もちろんオカルトを築き上げる上ではデジタルによって気付き上げられた強固な土台、つまり基礎的な実力が必須である。これなしでオカルトに走っても積み上げたものは脆く土台から崩れ去ってしまう危険がある。

 

自分も基礎を固めるにはある程度時間がかかってしまうものだということを再確認した上で将棋、麻雀、その他諸々において成長していければと思っている。

 

まずは自分もたとえ結果が出ずに気持ちが折れそうになったとしても粘り強く数をこなしていくことを意識して日々頑張っていきたい。次の記事を書くまでに何かしらの成長ができていれば良いなと思っている。

 

今将棋か何かで伸び悩みを感じている人にはこの記事が少しでも参考になれば幸いである。

熱烈進捗2020

どうも、熱烈進捗2020です、嘘、anyadraです。また更新サボってたわ。

 

言い訳するとネタは思いつくたびに書き溜めてたんだけど記事にまとめるのが面倒だったんだわ。

 

今まで敬体でしかこういう日記書いたことなかったんだけどやっぱりこういう個人的なブログくらいは砕けた感じで書いた方が良いかなと思ったのでこれからは常体も使っていこうと思っているのでよろしく。

 

突然だが今週は熱烈進捗2020と題して進捗をたくさん生むぞと頑張っている。(とか言って昼寝とか麻雀とかもたっぷりしてるけど、まあそんなもんやろ)

 

現実的な事情としては今週は実験等タスクが山積みになっているのに、日曜日は1軍戦だというのがある。

 

というわけで今日記書いてる暇はあまりないというのは確かだが、この際ブログも熱烈進捗2020してやろうということで今一気に文章を書いてる。(多少文が雑なのは許してね)

 

話は飛ぶが、先週の日曜日は個人戦だった、全国大会の地区代表をかけた大事な戦いだった。

 

anyadraは難しい戦いを抜け出し、将棋としては終わっているという必勝の形勢に持ち込んだ。

 

しかしそこから一人劇場してしまい、最後は信じられない見落としで頓死して敗退した。

 

詳しくはまだ調べてないので、また後で部の日記に書こうと思ってるから今回はこの辺で。

 

敗北の感想としては、自分はあまりにも弱くて代表に値しなかったんだな、ただそれだけだった。

 

しかし午前中で大会が終わって虚無だったので午後からは雀荘にでも行こうかと思ってしまった。(チラッとでも午前中で負けたら昼から麻雀打てるかもとか当日の朝に頭によぎってる時点で俺は異常だ)

 

しかし自分は牌を触った経験が乏しいので一人で雀荘に行く度胸がなかった。

 

まあ天鳳は10月はボロボロに負けたのだが1ヶ月前くらいから少しずつ勝てるようになってきてよく分からないが実力の向上を実感していて、ついに今月頭に降段後初の昇段した時は素直に嬉しかったな。

 

そんな状況だったが午後からセット麻雀に呼んでもらい、自分にとっての慰労会をやってもらった。結果は実力不足で負かされた感じだったが、強い人達と打つのは楽しく、とても身になる時間だったと思う。同卓者全員に大変感謝。

 

今の自分は麻雀に対し雑念なく純粋に強くなりたい、勝ちたい、強い人と打ちたいという気持ちだけがあるのだが、これは成長する上でとても良いことで、まだまだ自分は実力不足とはいえ伸びしろはいくらでもあるのではないかと思っているし、成長していきたいと思っている。

 

負けても自分の実力不足だ、もっと強くなりたいという気持ちがあったからこそどれだけ負けても打ち続けられたし、その積み重ねが実力向上と昇段に繋がったのかなと思っている。

 

そして今は少し勝てるようになってさらに楽しくなるとともにもっと強くなりたいと思えている、非常にポジティブなサイクルに入っているという感じだ。

 

小さい頃に今の自分の麻雀に対する気持ちと同じような純粋に強くなりたいという気持ちで将棋に向かえていれば人生も少しは変わっていたのかもなとか思ってしまう。

 

自分はずっと早くプロにならねばならないとか絶対に勝たなければならないとかいうような雑念に縛られて将棋をやってきたところがあったので。

 

でもそれは将棋を強くなる上で何のプラスにもなっていなかったと思うし、むしろマイナスだったと思っている。

 

どうして自分がそんな思考に陥ってしまっていたのかについてはここでは詳しくは触れない。ただこのことを詳しく記事にするのは今の自分にとって将棋界に対してできる最大の貢献だと思っているところがあるので、いつか必ず書く。(と言って年月ばかり過ぎ去っている気がするが)

 

そんな訳でいろいろ思うことはあるが先週のあの将棋すらも勝てないようでは自分は将棋が弱すぎるし、1軍戦も首を切られてもおかしくないよなと思っている。

 

しかし自分は他の部員を押し退けて主将に選ばれてメンバー入りしているのだし、出ろと言われたところで出てきっちり勝つのが自分の仕事だと思っている。

 

その仕事すらできなくなった時、今の自分の将棋に対する姿勢では自ら将棋界から身を引くべきだと思っている。

 

そんな自分を何か変えようという潜在意識が働いたのが今熱烈進捗2020をやっている真の理由だろう。

 

もちろん熱烈進捗2020だからと言って神経質になって病んだりしたら意味がないので、マイペースに進捗を生んでいくことを心がけている。

 

今日が熱烈進捗2020の3日目だが、正直今までと比べてそれほど進捗の生み具合に差がある訳ではない。

 

しかし自分の気持ちを奮い立たせるという意味ではここまでのところ熱烈進捗2020は成功している。

 

熱烈進捗2020の最終目標は1軍戦での勝利を掴むことだ。今はその先のことはあまり考えていない。ただ結果の如何に関わらず熱烈進捗2020は日曜日で終わるつもりだ。マンネリ化しては意味がないので。

 

ではここで1軍戦の必勝を誓い、日記の熱烈進捗2020は一旦終了しようと思う。結果がどうなったかは部の日記を楽しみにしていてほしい。