anyadraの日常

anyadraの日常を伝えていきます。

日常とは

お久しぶりです、1ヶ月更新をサボってしまいましたね。

 

これには理由はいろいろありますが、一番は前回予告した内容が自分でもうまく文章にまとめられない深過ぎるものだからですね。今も自分の考えが少しずつ変わったり新しい発見があったりしていて、最終的にはどこかでまとめないといけないと思うのですが今は少し待って欲しいです。

 

しかしこうして文章を書くのは好きなので、今でも定期的に更新したいとは思っています。(実際はなかなか更新するのが難しいかもしれないですが)

 

そこで今回は前回の予告とは大きく内容が異なりますが、日常について考えてみたいと思います。

 

そもそも日常とは何でしょう?

 

英訳すればeveryday,ordinary,regular,usual,この辺りでしょうか。

 

別の日本語にするならつねひごろ,ふだん,平生という感じでしょうか。

 

上の2つは辞書的な意味での話です。

 

では質問です。今現在は日常ですか?YesかNoで答えてください。

 

この答えは人によっても時間によっても異なると思います。

 

私の2020年10月15日(この日記を更新した日)時点での答えはNoです。

 

もちろんYesと答える人もいるでしょうし、それも正解だと思います。

 

Yesと答える人は既に“ニューノーマル”の時代に入ったのだとか別に今までと特に日常は変わらないとかいろいろと主張すると思います。

 

日常というのは時代によっても年代によっても異なり、もっと言えば人それぞれにとって日常は異なるものだと思います。

 

ただYesと答える人は今現在の情勢に適応しているのか、あるいはそれを(いろいろ思うことはあれど)受け入れているのかどちらかだと思います。

 

ここまでのまとめとして、日常は基本的に変化しないが、時間の流れとともに少しずつ変わっていくものだということが言えるでしょうか。

 

ここで大事なのは、基本的により良い方向に変化していくと期待したい日常ですが、時に良いとは思えない変化をすることがあるということです。

 

多少悪い方向に変化しても、人生はそういうものだとか割り切れる場合も多いでしょう。しかしこの変化があまりに酷い場合に(感覚が麻痺していなければ)人間は異常だとかこれは日常ではないとか感じることがあるのでしょう。私を含めて今現在の情勢にそのような感情を抱いている人にとって、先の質問の答えはNoになってしまうのでしょう。

 

私は現実に対して違和感を覚えることは確かに自分を苦しめる面はありますがとても大切なことだと思っています。なぜなら人間がこの異常や危機を感じる能力を失った時取り返しのつかない方向に突き進んでしまう可能性が高いからです。

 

今まさに私が感じている違和感というのは社会が取り返しのつかない方向に進んでしまう可能性があることを示唆しているように思います。

 

具体的には、最近よく耳にするようになった“ニューノーマル”という言葉が私は何かおかしいと思っています。

 

確かに昨今の情勢により今までの日常通りにできない面があり、いつになるかも分からないですが情勢が変わるまではある程度いろいろと我慢したりそれに無理矢理適応しようとしたりせざるを得ないのは仕方がないのかもしれません。私も苦しい日々の中なんとか現状に適応していこうといろいろと模索しているところです。

 

しかしその我慢を“ニューノーマル”として社会に押し付けるのはどうなのでしょうか。そもそも日常は人によって違うものですし、少なくとも情勢は今がベストでは決してないはずです。“ニューノーマル”を盲目的に信仰するのは危険で、むしろ情勢が変わったらこの“ニューノーマル”はぶち壊してかつての良かったものを取り返してやろうと思わないといけないのではないでしょうか。もちろん“ニューノーマル”に今までより良いところが全くないとも思わないので、そこは残して良いと思いますが。

 

ただ私にできることはこれが日常だと胸を張れるような日々を取り戻すために日々必死に生きていく、それだけなのかもしれません。そのためのヒントは今感じている違和感にあると信じています。

 

全くまとまりがなく、我ながら何を言いたいのかよく分からない文章だと思いますがそろそろ更新しないとと思って慌てて書いたところもあるので許してください。

 

次回はいつになるか、何を書くか全く不明ですが今は我慢の時だ、そう思って自分にとってこれだと思えるような日常を探っていきたいと思います。